noven’s

ただ生きてるだけなのにどこか哀しくて、本人大真面目なのになんだか笑える。おっさん自身を含めたそんな愛すべきダメおやじ達を、少しのフィクションを交えながら紹介したいと思います。

親父の猿股、おっさんのパンツ

おっさんはパンツを捨てない。

何故か。

自分の管轄ではないような気がするからである。

そんなことはないのに、無断で捨てたら奥さんに咎められるような気がする。だから捨てない。

新しいのがあるのに、と奥さんが言う。うん、と答えて結局クタクタを選んで穿いている。それが奥さん少し気に食わない。いつに買ったかわからないパンツは、未だに袋に入っている。

先日のことである。風呂上りにパンツ一丁でリビングに行き、薬箱を物色しようと板の間に尻をついた。途端、冷やりとした感覚が背筋を這い上がって「あ、濡れとる!」と叫んで飛び上がった。そんなに冷たかったわけではない。得体の知れない液体が尻に付いたと思ったのである。

濡れるはずのない場所である。まことに気持ちが悪い。奥さんも当然ながら「え、どこ?」とくる。ここや、ここや。と、おっさんちょうど奥さんに尻を向ける格好で四つんばいになった。一瞬の静寂。後、火がついたような笑い声。おっさんケツに何かが引っ付いていると思って慌てて払う。奥さん余計に笑う。

何を失礼な、人の慌てるのがそんなに可笑しいか。おっさん気を悪くする。

「違う、違う」と奥さん涙を滲ませながらまだ笑う。

何のことはない。パンツが破れていたのである。そこだけむき出しの素肌が板の間に触れて冷たかったのだ。

「はいそれ脱いで」

奥さん少し命令口調だ。

「新しいの穿いて、脱いだヤツに今までありがとうしなさい」

ついに来たと思った。正直に言う。おっさん今までありがとうが嫌だったのである。

着古した下着や穿き古した靴下を捨てる時、奥さんやたら今までありがとうを強要してくる。ゴミ箱に捨てたのを拾い上げてきてまで今までありがとうをさせるのである。

感謝したくないと言っているのではない。おっさんの小汚い尻を長年風雪から守り抜いてくれた歴戦の老戦士のごときパンツである。感謝はしている。

それでいいじゃないかと思う。口にしなくたって気持ちはある。それでいいじゃないかと。

感謝や慰労は儀礼ではない、真心だろう。そんなことをつい考える偏屈者の今までありがとうは、やはり虚ろに響く。それでも奥さんの中では一つ区切りがつくので、クタクタのパンツは晴れてお役御免になるのである。

そんなこんなでおっさんはパンツをなかなか捨てない。

 

おっさんの両親は離れて暮らしている。一頃親父だけがおっさんの家に起居していた。複雑な事情があってではなく仕事の都合である。

ある時、親父がつっけんどんに「お前、これ穿け」とパンツを投げてよこしたことがあった。一旦背中を向けてから振り返って、「新品やぞ」とわざわざ付け加えた。

お袋がサイズを間違えたらしい。おっさん前述したようにパンツにあまりこだわりがないので、そのいかにも年寄りくさい柄のパンツを「ありがとう」と言って受け取った。サイズが合わないと言うからには一回穿いているのである。一回穿いたら新品ではない。とはいうものの自分の親父なので気にはならなかった。が、そのパンツが後々おっさんを羞恥のどん底に叩き落すことなぞ、その時はまだ知り得なかったのである。

おっさんが貰ったそのパンツは、幾度も親父の下へ帰って行った。洗濯のたびに奥さんがせっせと親父の部屋へ運んだからだ。なんせ買った覚えのない柄のパンツである。こんなに年寄りくさいのはお義父さんの物に違いないと思うのも無理はない。親父も親父で自分の下着の柄なんぞいちいち気にしていないので、せがれにくれてやったパンツだと気づくためには一回穿かにゃあならん。そんでもって「あ、小せえ」とつぶやいて舌打ちとともに脱ぎ捨てるのである。

そんな事が幾度か続き、親父ついに堪忍袋の緒がきれた。四十近い息子の下の名を、件のパンツに油性マジックで書きなぐったのである。ひらがなで。

前述したようにおっさんパンツにまったく頓着しない。自分の名前が書いてあるのも気付かずにいた。当然会社にも穿いて行く。

そして悲劇は起こった。おっさん名前入りのパンツを会社のシャワールームに落としてきたのである。

安普請の脱衣所に打ち捨てられたパンツはひどく汚らしく見える。おっさんそれが自分の物だとはついぞ気付かなかった。会社の誰もがその存在に気付き、疎ましく思い、そして無視した。おっさんもその一人だった。どっかの阿呆が忘れてやがる、はよう気付かんかい。と腹の中で悪態までついた。しかしおっさん含め誰もパンツについて触れようとはしなかった。総パンツウォッチャー現象である。かくして一週間もの間、パンツは脱衣所に放置されることになった。

均衡を破ったのは事務員さんだった。彼女は床に落ちたパンツを無視したりしない。自分が汚れ役を引き受けることを厭わないのだ。聖女である。パンツに言及したが最後、「じゃあお前が捨てて来い」と言われることを恐れて雁首そろえてシカトを決め込んだおっさんら穢れたる罪人は、聖女の言葉なき行動によって断罪されたのである。

彼女の清き行いはそれだけに留まらなかった。おっさんのとこへやって来て、「パンツ落ちてたよ」と教えてくれたのである。なんのことだか分からなかった。おっさんのパンツであるはずがない。よしんばそうだとしてもおっさんの物であると分かるはずがない。ははん、そうか、カマをかけてやがるな。全員にそうやって近づいて、阿呆な持ち主を炙り出そうって算段だな。何が聖女なもんか、おっとろしい女よ。

おっさん瞬間的にそこまで考えて、

「……俺のじゃない」

と、蚊の鳴くような声で答えた。

その後は推して知るべしである。お白州に引きずり出された越後屋は、開き直る度胸もないままに罪を受け入れたのだった。

 

その方、市中引き回しの刑に処す。パンツとともに。